毎年、12月15日から18日にわたって開催される「おん祭」は、春日大社摂社若宮社の祭礼で、1136(保延2)年に始まったといわれています。江戸時代には、大和一国の祭りとして盛大に行われました。17日には華やかな御渡式があり、その中でも重要な儀式といわれる『松の下式』が行われるのがこの「影向の松」の下です。ここを通過するさまざまな芸能集団は、各々芸能の一説や所定の舞を演じてからでないと御旅所へ入ることができないとされています。現在各地にある能舞台の鏡板に描かれている松は、この影向の松 のことを指しているとされます。

ところで、この御渡式で行列の先頭を歩く二人の人物がいます。戸上(とがめ)と膳手(かさいで)といい、行列の先頭をキヨメながら歩くという重要な役割を果たしています。「神事や祭り」と「キヨメ」とは、切って も切れない関係にあります。そして、「キヨメ」と「被差別民衆」とは深い関係にあります。こうした視点から、各地の「神事や祭り」を考えてみることも重要だと思います。
 
 
祭神は天児屋根命・比売神。
神護景雲2(768)年に春日大社の祭神、天児屋根命が河内国枚岡から現在の春日大社へと遷られる際に、一休みされた所とされています。むかし高円山麓一帯は大宅郷と称していたので、この社が宅春日と名づけられたといわれています。また、雷火によって社が焼けたため焼春日とされたともあります。
なお、この神社には、太鼓づくりで数々の資料にも名が見られる「松村甚右衛門」と銘の入った太鼓が奉納されています。
 
奈良市立飛鳥中学校付近は「市の井」もしくは「一の井」として記録に現れます。「市ノ井」は、滝坂道から柳生を経て笠置・月ヶ瀬方面へ、また田原から伊勢方面への交通の要所でした。また近世奈良の東の境界とされていました。
この市ノ井で、江戸時代に『綱貫(つなぬき・つらぬき)』と呼ばれる和沓が販売されていた記録が残っています。その中には、商売としてしっかりと成り立っていたのか、その後、販売権を持たない者が同じ「市ノ井」で綱貫の販売を始める等のトラブルが発生し、争論となっています。
この、「綱貫」の販売をめぐる話とも関連性があるかもしれませんが、「市ノ井」という地名から、かつて市場があった可能性があります。
古代・中世の市は、さまざまな境界領域に立てられました。ここ「市ノ井」も山と里、聖なる世界(春日社)と俗界の境界ですので立地条件は満たしています。それから、市の守り神として多くは恵比須神が祀られました。もしここに「市ノ井」に恵比須があれば、かつて市があったと考えてもいいようです。
白乳神社の裏手に小さな祠が二つあります。ひとつは春日社末社住吉神社、 もうひとつが恵比須神社です。祀られている自然石をよく見ると恵比須神の姿に見えます。
 
一般的に奈良は戦争の被害も少なく、他の大都市のような悲惨な様子もなかったように語られていますが、当然奈良も戦時体制に組み込まれていて、他の地域と同じく戦争は庶民生活の奥深くにまで入り込んでいました。そして、現在でも奈良にはその痕跡が多く残されています。
現在奈良教育大学を中心に奈良女子大附属高校、奈良市民病院、紀寺団地一帯は奈良連隊の諸施設がありました。具体的には教育大学の敷地内には土塁跡や高射砲への階段(教育大学の学生では十三階段として伝承。)跡。紀寺団地内には戦後占領軍にもら利用されたセスナ用の滑走路が現在でも道路として使用されています。
 
奈良の鹿を春日明神の使いとする信仰は、平安時代からあったようです。特に興福寺の力が強まるにつれて、この鹿は「神鹿」として手厚く保護されました。「神鹿」を殺したり傷つけたりしたら、興福寺の権断権が行使され、重い時は死罪とされました。誤って鹿を殺してしまった子どもを鹿の死体と抱き合わせにして、石を詰めて処刑したという「三作石子詰め」の伝説は、こうした考えを背景として作られたものです。
江戸時代になると鹿の数もかなり増え、鹿の角に突かれて怪我をする人もでるなどの状況がありました。そこで、1671(寛文11)年に奈良奉行の溝口豊前守信勝は、鹿の角を切ることを命じ、翌年の8月に行われたのが「鹿の角切り行事」のはじまりです。
角切りの手順は、奉行所から触れが出されると、各町に知らされ、鹿のいる町では町内の空き地などに鹿を追い込んでおきます。そこに角切り当日に奉行所の与力や同心と角切り人足が出向くことになっていました。経費は各町の負担でした。
角切りは、被差別部落の人たちの役とされ、この役の代償として切った「角」を下げ渡されました。「角」は加工され、鹿角細工として奈良の工芸品として有名になります。
 
 奈良市閼伽井町に閼伽井庵というお寺があります。ここには、楠木正成が収めたとされる銅製の鎮宅霊符神があり、古くからソロバンによる算易が行われていたといわれています。閼伽井庵の南、奈良教育大学の敷地内には吉備真備の墓だという伝承のある「吉備塚」があります。真備の子孫は賀茂氏を名乗り、陰陽寮の役人を世襲しました。「吉備塚」の近くに幸徳井という井戸があり、15世紀の頃、賀茂友幸が住んでいたところで、幸徳井家と呼ばれるようになったといわれています。幸徳井家は幕末まで代々陰陽寮の役人を務め、幕府公認の暦を作っていました。現在町名として、幸徳井町→幸井町→幸町と変遷してその名残があります。
 

 平安時代、平安京では死体は放置されていました。死者には慣れてはいても怖いものは怖い。そこに鬼や物の怪の姿をみても不思議ではない状況だったのです。特に政変などで普通の死に方をしなかった死者に対する恐怖は並大抵のものではありませんでした。そこで、普通の死に方をしなかった人々の恨みを鎮めるために神としてまつりあ げ、拝んだのです。これが御霊信仰の始まりです。
一方でこうした怨霊から身を護るために、その怨霊を調伏することを考えます。そこで頼りにされたのが陰陽師などの心霊パワーを持つ人々だったのです。
陰陽師といえば、安倍清明の名がすぐに浮かんできます。今では小説・劇画・ドラマ・映画などですっかり有名になりましたが、陰陽師とはいったいどのような人だったのでしょうか?
陰陽師とは、律令制下、陰陽寮にたずさわる官人を指す言葉でしたが、陰陽道が日本化し、宮廷から民間へと影響がひろまるにつれて、卜占を行う者一般を指す言葉となっていきました。
陰陽道を民間に広めるのに大きな力となったのは、声聞師であったと思われます。中世後期には経読み、下級陰陽師、千秋万歳、曲舞、傀儡師などの各種芸能に従事する被差別民衆がふつう声聞師と呼ばれて、奈良では興福寺や大乗院門跡に支配されていました。また、声聞師は、奈良町および大和一国中の芸能にたいする支配権を持っていました。
このように声聞師が民間の陰陽師として活躍する一方、宮廷にでは賀茂(後の幸井)・安倍(土御門)両家が陰陽家として、禁裏や鎌倉以降は幕府にも仕え、公家・武士の個人的な求めに応じていました。戦国時代になると、公家の屋敷にも声聞師が姿を現すようになります。
 
奈良市西紀寺町に「崇道天皇社」が鎮座します。崇道天皇は、奈良朝最後の第49代光仁天皇の第2皇子、早良(さわら)親王のことで、第50代桓武天皇の同母弟。兄の即位に伴って皇太子になりますが、785年長岡京造宮使の藤原種継暗殺事件に連座して、長岡京市の乙訓寺に幽閉され、淡路へ流される途中、絶食をし淀川辺りで餓死しました。その後、桓武天皇の長男の発病や皇妃の病死などが相次ぎ、それらは早良親王の祟りであるとして幾度か鎮魂の儀式が執り行われ、800年、崇道天皇と追称されました。
ところで、この神社の境内に蝸牛型の灯籠があります。これは雨乞い神事にかかわるものです。雨乞いに関しては、近世以前には被差別民衆が深く関わっていたいた記録が各地にあります 。
 
大乗院は、一乗院とともに興福寺の門跡寺院として、平安時代から室町時代にかけて栄えた子院です。治承4(1180)年、平重衡の南都攻めにより焼失したため、鎌倉時代に現在の場所に移されました。15世紀末に大乗院の門跡であった尋尊(じんそん)が、当時の庭師の第一人者であった善阿弥に依頼し、庭園を改造したと伝えられています。善阿弥が関与した庭園遺構として、大変貴重な庭が大乗院庭園です。善阿弥は、八代将軍足利義政に重用され、彼の技術は天下第一といわれていました。
彼だけでなく中世の奈良や京都の文化形成に、被差別民衆は大きな役割をはたしました。当時、名園といわれた多くの庭園は山水河原者(せんずいかわらもの)とよばれて被差別の人々の手によって作庭されたものです。
しかし、このような優れた技術者としての彼らに対しても、「差別」のまなざしは向けられていました。善阿弥を祖父とし、大乗院や銀閣寺の庭園の築庭をおこなったといわれている又四郎が、彼らに向けられる「差別のまなざし」の要因を「屠家に生まれし」こととし、「物の命を誓って之を断たず」と決意することによって、このまなざしからの脱却を図ろうとしていたことに注目したいと考えます。
 
奈良時代に中国から渡来した「散楽」が、平安時代に、物まね・曲芸・歌舞・寸劇など多様な滑稽を本質とした雑芸に変質していき、『猿楽』と名称されました。それが鎌倉時代の後期頃に「能」と「狂言」という演劇に発展して現在におよんでいます。
ところで、「能」「狂言」の源流とも言える『猿楽』を演じてきた人々は、中世社会では声聞師支配の立場にありましたが、観阿弥・世阿弥の登場によってこの「猿楽」が芸術的に完成されたことと、室町幕府や諸大名の庇護を受けていくことなどによって徐々に『脱賤』化していきました。
 
毎年5月11日・12日に開催される「薪能」は、869(貞観11)年に始まったとされていますが、その具体的な様子がわかるのは、室町時代に入ってからです。今日、能・狂言がブームとなり、各地で「薪能」が行われていますが、興福寺での「薪能」だけが「薪御能(たきぎおのう)」と呼ばれています。
室町時代当時から、この「薪御能」に参勤したのが大和猿楽四座でした。四座は「薪御能」に必ず出勤すべき重要な行事でした。それは、猿楽座も興福寺の支配を受けていたことによります。これら猿楽座の演能集団は被差別の立場にあった人々であり、大和の寺社の祭礼で翁猿楽を演じていたと考えられます。興福寺南大門跡前の「般若の芝」がその競演の場でした。
翁猿楽は神事として祝福の言葉や舞を演じる祈祷の舞でした。この猿楽能を「芸術」の域まで高めたのが、観阿弥・世阿弥親子でした。しかし、ある公家の日記の中に、祇園祭りの山鉾巡行を義満が桟敷を構えて見物した際、観阿弥の子である藤若丸(後の世阿弥)を同席させたことにたいして、この日記の著者は、ひとしきり悪口・雑言を書き並べ、さらに「かくのごとき散楽者は乞食の所業なり」と述べています。また、「席を同じくして器を伝う」とも書いていますが、食事をともにすることによって「穢れ」が伝染していくと信じられていたことと関係しています。つまり、「乞食・非人」(世阿弥)の「穢れ」を将軍に移すと怒っているのです。当時の公家たちの、芸能者にたいする認識の状況がよくわかります。
 
川路聖謨は1801(享和元)年に豊後国日田の下級役人の子として生まれ、後に江戸の旗本川路家の養子となります。18歳で出仕後は、その才覚を認められ、幕政の改革に大きく関わります。
しかし、幕府内の政争に巻き込まれ、1846(弘化3)年に中央からはずされ奈良奉行となり、1851(嘉永4年)までの5年4ヶ月在任しました。
在任中の彼の業績は、拷問の廃止や貧民救済のための資金づくりなどがありますが、奈良の人々に広く呼びかけ、興福寺や東大寺境内に桜や楓を植樹をし、今日の奈良公園の基礎ともいえる事業を行いました。この事業を記念して「植桜楓の碑」が建てられました。 ところで、彼は在任中の出来事を日記に残しています。これを『寧府記事』と言いますが、その中には多くの被差別民衆との交流の様子が書かれています。中には個人的にもかなり親密に交流のあった人物も記されています。身分へのこだわりが強かった江戸時代に、奉行と被差別民衆との間で、このようなふれあいがあったことはあまり知られていません。
 

 元興寺は、588年に蘇我馬子により建立された、法興寺がその前身となります。718(養老2)年に、この寺は現在地に移され、元興寺となりました。平城京の人は、遠い飛鳥の故地とこの寺と重ね合わせ、元興寺一帯を奈良の飛鳥と呼んだと言われています。これが、飛鳥中学校の校名の由来にもなります。
遷都以後、元興寺の力が次第に衰え、1451(宝徳3)年の土一揆で金堂も焼失しています。その後も衰退は続き、近世に入ると、旧伽藍地には民家が立ち並んでいきます。  
最後まで、創建当時の姿を伝えて来た五重塔も、1859(安政6)年に焼失してしまいます。現在は塔跡、極楽坊、小塔院が散在する形となっています。そのうち極楽坊は1998(平成10)年に世界遺産に登録されています。
 
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